昭和48年10月16日 朝の御理解
御理解 第18節
「此方の事を、神、々というが、此方ばかりでない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。」
教祖生神金光大神様が受けられた、生神としての徳、同時に生神としてのおかげを受けておられる。生神様、生神様と言うだけじゃいかん。やっぱり生神様としての徳を現す、いわゆるおかげを受ける。それが現在の金光教の姿でもある。生神金光大神様のお徳なのである。そこでまあ解り易く申しますと、生神金光大神の徳というのは、まあ例えば経済なら経済面の事で、まあ申しますなら、生神の徳を受けたら、例えばお金を不自由する事はまずはないね。
もう必要なお金が、必要なだけ集まってくると言う様なお徳が、まあ生神の徳だと致しましょうか。ですから例えば、教祖様の生神としてのお徳が、まあ一億円なら一億円と言う金はいつでも必要なら必要に応じて、たちどころに頂けれなさるお徳を頂いておられるといたしましょうか。とても一億円や二億の事じゃないですね。教祖様の場合なんか、けどまあ、分かりやすく言うとそうです。
ですから、そんなら、それを、その通りにおかげが受けられると、こう最後に仰っておられるのはね、私共、日々の生神を目指しての信心の稽古をしておるのです。金光様の信心、信奉者は総生神への目印に向かって、一歩、一歩進ませて頂いておるというのが、金光様の御信者、信奉者の姿でなければいけんのです。ですからその通りの、例えばおかげが受けられると。
先日或る銀行員の方から聞かせて頂いたんですけれども、まあ九州では一番まあお金がたまってるだろうと思われる教会が、毎月あちらは百万づつ、貯金をして頂きますという事であった。うちあたりは反対に、いうなら百万宛借金の支払いを毎月させて頂いておる。 その時一寸聞かせて頂いた。大体幾らづついま払いよるねというたら、百七十万あて元利とも払いよるとこう言う。それも本当にそれこそ一つも無理な事はない。それこそいうなら、楽くにおかげを払わせて頂いておる。
けれども、さあおかげを受けておると言う事は同んなじですただ問題は、片一方は預金になって行っておる、片っ方は借金払いになっておると言うだけの事であって。金がそこに現れておると言う事は同じ。けれども出来るならばやはり、借金払いではなくて貯まって行く方が良いですね。昨日も或る方のお届けをさして頂いた。もう手形の事がもう、本当にもう、てんやわんやで、もうギリギリ、ギリギリでもうおかげを頂いたというお話。それを楽にその手形を払うて行くと言う事も。
ギリギリであってもその支払ろうたという事に於いては変わりはないのである。ね。只、こちらの信心不足のところが少しばかり、バタバタせんならんというだけの事である、それは貯金して行っておる教会もあるかと思うと、うち辺りのごと借金払いをしておると言った様な教会もあるようなもんなんだ。その金がそこに預けておるという事は同じ事。ならこれを皆さんの上に申しますとです、なら合楽の教祖の神がいつも一億円の金には何時も不自由なさらない。
いわゆる生神の徳を受けておられるとするならです、その通りのおかげを、なら合楽でも受けておる。只額が小さいだけ。例えば一千万なら一千万のお金なら、不自由しないという一千万だけならいつもお金が集まってくると言う様な、これはお徳に集まってくるわけ。だから一千万より二千万、二千万より三千万の、ならおかげを頂きたい。為にはも少し信心を高めなければならない。
進めなければならないという事になります。ね。なら皆さんでもこれは合楽の方達はほとんど、そういうおかげを受けて、おられると思うんですけども、本当に、先生その日暮らしではありますけれども、千円なら千円のお初穂をなさっている方がです、もうこれだけは間違いなしにお供えが出来ますというておられる。さあ、明日はどうなるかわからんけれども、明日は明日で、ちゃんとお繰り合わせ頂いて。
おかげを蒙っておりますとこういう。だから千円よりも二千円のお金を、不自由はしないおかげを頂く為には、二千円がたの信心を、一段と進めなければいけない事がわかる。その通りのおかげと言うのは私は、そういうふうに今日は感じました。成程私共は金光様のお徳によって金光様の受けておられるようなおかげを受けておるなあと。私は毎朝三代金光様のお写真向かって御挨拶させて頂く。
天地を遙拝さして頂いて、次に三代様のまあ金光様のお写真にむかって、御挨拶さしてもらうのは他でもない。只ね金光様、あなたの真似ごとだけでもさせて下さいというのが、これはもう私共にとっては最高、最大の取次者としての、御神徳を受けられたお方。それを私共は、目の辺りに見たり、聞いたりさせて頂いておる金光様の事ですから、それを実感として感じれるわけですね。
本当にあれが取次者としての鏡である、手本だと。生手本でおありになった それをなら取次者としての私共も、とても真似は出来ません、その通りの事は。けれどもね、もう一ことだけでも、真似ごとだけでもさせて頂きたいという事を、毎朝私は願わしてもらう。だから真似ごと位なおかげは受けておるという事になります。そこでです、なら、私共の生神へ向かっての、又教祖様のおっしゃる、皆もその通りのおかげが受けられるとおっしゃる程しのおかげがです。
今日よりも又明日、今月よりも又次の月、今年よりも又次の年に、一段と信心の徳を、いわゆる生神の徳を真似かたにでも頂いて、それが言うなら金額でいうと千円には不自由しなくなった、二千円には不自由しなくなった、一万円には不自由しなくなったというようにです、その信心が進んで行く事が楽しいのである。そこでそんなら、どういう信心をさして頂いたらと、昨日の御理解も此処であった。
昨日の御理解は真一つで助かる道であるとか、真心一つで人が助かるとかと言うが、その真心とはそんなら真とは、自分も助かり人も助かる程しのお徳を受ける為に、真にならなければならない。真心にならなければならないというが、その真心とはという。昨日はそこん所に焦点を於いての話でした、ね、いわゆる真心が新しい角度から、ああ成程そうだと思わして頂ける御理解でした。
或る嫁、姑の問題で、もう家のお母さんばかりはいくら私が真心をつくしても、この人ばかりは、人の真や真心てやらわかる人じゃないと言うお届けがあった。話を聞いてみるとほんなこつなと、私も思う位であった。もう本当に家のおばあちゃんにだけは、私は真をつくしよる。真心でしよるんだけれども、それを反対にとんなさる。もう私はあの家のおばあちゃんにはとても出来んとこう、付き合いはきらんとこう言う。
そしたら私が御神願に、お知らせ頂くのが薪ですね、焚きもん。薪をくくってある。そのくくってある縄がぷっつと切れて、ばらばらになるところを頂いた。私はその時はじめて、薪とは真心と真木とは私は真心と頂く。真の木、木は心とね真心とはですね、もう貫くものだという事。どんなにそれは美しい表現で、現したり言うたりしておりましてもです。それで途中で切れるようであったら。
あなたのは真心じゃないと言う事になるのです。ね。それの反対の表現を、あの新歌舞伎、歌舞伎十八番の紅葉狩りという芝居があります、はじめの間はそれこそ、水のしたたるようなお姫様です。それが段々筋が運んで行くに従って鬼に化けてしまう。鬼になってしまう。大体鬼がその正体を表すというお芝居なんです。それこそ水がしたたるような事をね、それこそ、口水のたるような事を言うておってもです。
それも始めはそれが嘘ではない。本当は真心と思うて言いよるけれどもそれが段々変わってです、似ても似つかぬような事になってしまうならば、それは真心じゃないと。それを私は、私の事で恐縮ですけれどもというて、話をした事ですけれども、私と親教会の場合でもそうであった。あの五年間と言う疎遠の時代があった、向こうが向こうなら、こっちもこっちというね、もう本当に親でもなければ子でもないと、はっきり言い渡されたんですからね私は。ね。
けれども、そんな事はない。必ずわかって頂く時があると思うからこそ、私は、五年間、毎日お届けを致しました。もうそれこそ沢山のお初穂になりました。或る時なんかは、或る時じゃありません。丁度二十八年の大洪水の時に、あちらも御広前が畳が腐ったと聞きましたのでね、久保山先生に、まあだ水がようと引いとらん内にあのお供えに持って行ってもらいました。
お役な立つならと思うて、そしたらその大きいもんじゃけん、何か他のものと感違いなさったらしいです。そしてもうそれこそ久保山先生が泣く泣く帰ってきなさいました。先生あなたがこう言うて真心で言いよんなさろとじゃけれども、先方ではではです、そげなもんは受けとられん。そげなもん受けとりよると、又宣伝の材料につかわれるとおっしゃったそうです。
これはまだ真心が足りんのだと思うて、それでまあ又そのままね、家も大水に浸ってしまいましたも、そのお初穂がそれでこう重なっとりましたからね、又それを全部一枚々ほどいて、それからでもやはり続けさして頂いた、続けさせて頂いとったおかげで、あのー五十年祭の記念祭には、又私が復帰のおかげを頂いて、そしてまあいうならば、本当に思う存分の御用をその当時としてはですよ、そのおかげで出来たです。
だから真心というものは、だから向こうがそう言いなさるなら、もうこれきりだと切っとったら、もう真心じゃなかったという事なんです。真心というものは、貫かせて頂かなければならないものだと、綱が切れたら薪がばらばらになったら、それはもう真木じゃない、真心じゃないという意味の事を昨日頂きましたね。だからささやかな事でもよいから、それが貫かれるならば真心である。
それで今日の御理解を頂いておりますと、言うなら、千円がたの徳よりも二千円、二千円がたより一万円のには不自由せんですむね、いうならばあーー借金払いの百万円よりも、やはり貯たまって行く借金払いが、それは幾ら借金払いが楽に出来ましてもです、やはり貯金する方の百万円の方が有難いじゃないかと。理屈は同じこと、百万円に不自由しない。百万払いはなんときに払えると言う事。
片一方はそれでも貯金、片一方は同じ銀行であっても利払いの方に入って行きよる。だから此処をもう一段、借金払いから貯って行く為のおかげを頂く為には、なら合楽私自身の信心も一段とそれだけの信心に進んでいかなければならない。私は昨日はあ成程実意丁寧神信心とこう教祖様が仰る、実意という事をあらゆるところにお言葉をお使いになっおられる。現教主様をこの頃から、御大祭の御直会に頂戴してまいりました、あの色紙を見ましてもですね、全ての事に実意をこめてとこう教えておられる。
すべての事に実意をこめてという事は、全ての事に真心でと言う事に昨日は聞いて頂いたですね。実意とは真心の事なんだ。それをなら此処では成り行きを大事にするとか、全ての事柄に御の字をつけて、御事柄として受けて行くという事なんです。ね。お互いに些細なおかげではあるけれども、ささやかなおかげであるけれども、教祖様と同んなじような合楽の御神縁を頂いとる方達は、それなりにやはり頂いておられると思うんです。本当にその日暮らしが出来ておる。
これは、もう本当にもう恐れ入ってしまう程しに、明日はどうしょうかと思ようると、明日は明日で、ちゃんとお繰り合わせ下さる。ね。どんなに言うてもやっぱり有難い。それは、ばたばたしながらであるけれども、手形がちゃんと落ちて行く。だから唯楽に手形が落ちて行くのと、ばたばたしなっけりゃでないと落ちんと言う所にです。もう少しなら楽な信心を、楽なというか、楽に頂けるおかげの信心を、させて貰わなければならないという事になるね。
だからいうならば、その真と言うか真心が、育っていかなければいけないと言う事です。只貫くと言う事だけではなくて、貫いて行く信心が、去年よりも今年と言う様に、育って行かなければならない。そこにその通りのおかげという、そのおかげも、もっと垢抜けし、もっと言うならば大きなおかげになっくる。あの人は真心の厚い人じゃというのですから、やはり同じ真心であっても、薄いのもある事が解ります。
あの人は真心の厚い人じゃと、だから真心も矢張り薄い真心もあると言う事。大きい真心もあれば小さい真心もあると言う事。そこで私共の信心がより厚く、より大きく真心が育って行かねばならない。そこに信心の稽古があるのです。私は今朝今日の御大祭の事を、お願いさして頂き、まあいろいろの事のなか、或る事を本当に、お金も沢山かかる事だし、又御迷惑もかけなければならん事だから、もうほんに、こげな事は止めたがよかなと、私がある事を思うた。
もう人間的には、もう人間心を使うて心配せんならんのですから、もうこげな事はこの次から止めようかと思うたある事ですよ。そしたらねこういう輪を頂いた。輪のここんところが一寸ちぎれているところを頂いた。そしてねこの輪のためじゃと仰るのです、神様がね。だからあげな人には虫が好かんけんで、あの人とは仲ようならんでんよかちゅう事はないと言う事。そういう人とでも例えば、和になる為のそれはお金も掛かろう。人間心も使わんなるまい。
けれども、これは和のおかげを頂くためぞと神様、ははあ成程、誰とでもそうして和をむすんで行かねばならない。それが生神への道だという事になってくる時です、生神様があげなとは好かん、これは好いとるちゅうな生神様がおんなさるはずなかです。ね、ですから、生神を目指すからには、矢張り皆んなとの素晴らしいこの和が、いわゆる調和がとれていかなければならない。矢張り生神のを邁進させて頂く者は、そこん所はいやでもあろうけれども矢張りそれを信心で。
いわゆる実意をこめて。全てを大切にして行かねばならない事を、今日はわからせて頂いた。今日は此方が、おかげの受けはじめである。皆もその通りに、おかげが受けられるぞと教えられる。そこのところに、焦点を於いて聞いて頂いた。私共は生神なんでと思うけれども、実際をいうたら、合楽に御神縁を頂いて、信心の稽古をなさっておる方ならば、もう多かれ少なかれ生神の徳というものを、銘々の上に、又は家庭の上に頂き又は、現しておるという事です。
ですからその真心というものが、その実意というものが、もっと深い本当の実意なんです。もっと本当の真心になって行くと言う事がですね、いうならば必ずしも、その日暮らしという事はない。余裕綽々とした、豊かな生活を楽しませて頂けれる、お徳もあるはずである。おかげもあるはずである。百万円の支払いが出来る。楽々出来る有難い。けれどもそれが支払いではない。貯って行く方に楽々と出来るというなら、これの方がやっぱり有難いと言う事なんですよ、ね。
どうぞ。